仏教が語る「苦と楽を受け入れる心」:格闘家の禅僧が贈る、一喜一憂の力みを抜き「苦楽を乗りこなす軸」を再生する技術
あなたは今、物事が上手くいっている時は「この幸せが失われたらどうしよう」と怯え、逆にトラブルや苦境に直面した時は「どうして自分ばかりが」と絶望し、心休まる暇を失ってはいませんか。人生の浮き沈みに振り回され、精神のスタミナを自ら枯渇させてはいないでしょうか。総合格闘技の武道を極め、禅の修行に生きる私、道慶が、あなたを翻弄する「苦と楽」の正体を冷徹に解体し、どんな波が押し寄せてもブレない「本物の心の安定(安心・あんじん)」を再生する智慧を語ります。
はじめに:苦と楽は「敵と味方」ではなく、同じ1本のロープである
「苦しみ(不快)を徹底的に排除し、楽しみ(快)だけを永遠に引き寄せたい」。沖縄市 観音寺の境内で座禅(坐禅)を指導していると、そうして人生を「都合の良いものだけ」で満たそうとし、思い通りにいかない現実との摩擦(力み)に疲弊している方に多く出会います。しかし、仏教が教える本質とは、「苦と楽とは別々に存在する敵と味方ではなく、あなたの『思い通りにしたい』という執着が作り出した、同じ現象の表と裏に過ぎない」ということです。
- 「楽(快)」にしがみつくあまり、それが失われる無常の現実に先回りして怯えている状態(愛着の力み)
- 「苦(不快)」を力ずくで拒絶し、排除しようと戦うことで、痛みを何倍にも膨らませている状態(忌避の強張り)
私自身、沖縄市 観音寺にて禅を追求し、同時に総合格闘技の武道を極めてきた道慶(大畑慶高)と申します。金網のリングの上は、勝って得られる「楽(栄光、歓喜)」と、打撃を喰らい負けて味わう「苦(激痛、絶望)」が極限のスピードで交錯する世界です。勝利に浮かれて興奮(力み)すれば次の瞬間ガードが甘くなり、打撃の恐怖に心を縮こまらせれば身体が硬直して動けなくなります。私を生かし続けたのは、勝利の予感も敗北の予兆も、ただの「今ここにある現象」として等価に呑み込み、肩の力を抜く(抜力)禅の身体知でした。この記事では、武道の身体知と仏教の智慧を融合させ、苦楽の波に呑まれない不動の軸を通す方法を紐解いていきます。
第一章:仏教の核心:二元論の檻をひらく「不二(ふに)」と「八風不動」
仏教における本当の強さとは、苦しみを無理やりポジティブに捉え直したり、楽に溺れたりしない「中道(ちゅうどう)」の姿勢にあります。
1. 苦楽不二(くらくふに):分断する脳の癖を引き算する
私たちの脳は、現実をすぐに「良いもの(楽)」と「悪いもの(苦)」に分断し、片方を追い求め、片方を排除しようと暴走します。仏教が説く「不二」とは、それらは本来一つであるという真理。苦があるからこそ楽の有り難さが分かり、楽を経験するからこそ他者の苦に共感できる。どちらの波も、あなたという器を大きく耕すための等価な「命の躍動」であると受け入れたとき、心は強張る理由を失い、静かに澄み渡ります。
2. 八風吹不動(はっぷうふけどもどうぜず):世間の揺さぶりに重心を渡さない
仏教では、人の心を揺さぶる代表的な8つの風(利・衰、毀・誉、称・譏、苦・楽)を「八風(はっぷう)」と呼びます。思いがけない利益(楽)に浮かれず、突然の損失(苦)に慌てない。世間の風がどちらに吹こうとも、「そうきたか」とただ鏡のように現状を映しては流す(如実知見)。条件に自らの安心を人質に取らせないこの姿勢こそが、真の不動心です。
第二章:道慶の武道観:ケージの中で学んだ「腹(丹田)の等価処理」
格闘技の極限状態において、苦楽(勝敗)を受け入れることは根性論ではなく、心身のスタミナを温存するための冷徹な身体技術です。
1. 丹田(たんでん)で「脳内の一喜一憂」を重力へ逃がす
「上手くいきそうだ」という興奮や、「もう駄目かもしれない」という焦燥感が頭(脳)で暴れるとき、人間のエネルギー(血流)は上ずり、呼吸は浅くなって視野が狭くなります。私は試合中、どのような波が来ても、意識を物理的におへその下の丹田に叩き落とします。頭での複雑な計算や一喜一憂を止め、腹(身体の中心)で大地の重力を深く受け止める。重心が低く定まったとき、脳内の過剰なノイズは地中へと放電され、静かでクリアな覚醒状態が再生されます。
2. 抜力(ばつりょく):抵抗をなくし、苦楽を素通りさせる
「不快な現実を絶対に認めない」とガチガチに防衛を固め、反発すること(力み)が、最も衝撃をまともに喰らう脆い状態を作ります。禅道会の稽古や座禅で学ぶ抜力は、世界との戦いをやめる身体操作です。ふっと肩の力を抜き、自らを空(くう)にする。力が抜けて透明になったとき、外からの強烈な「苦」も、あなたを狂わせる「楽」も、ぶつかる対象を失ってあなたを素通りします。この脱力こそが、しなやかな心の自由をもたらすのです。
第三章:日常に活かすヒント:日常を道場に変える三つの「観音寺流」実践
観音寺の境内に立てない日でも、あなたの日常の暮らしのなかで、苦楽にしなやかに正対する力を養うことができます。
1. 日常実践のヒント1:感情のピークをいなす「吐き切る呼吸」
思いがけないピンチ(苦)に焦った瞬間、あるいは予期せぬ成功(楽)に舞い上がりそうになった瞬間、すぐに反応するのをやめ、鼻から細く長く息をすべて吐き出します。禅の「調息」です。呼吸という物理的動作に没頭することで、脳の自動反応(興奮や恐怖)をハッキングし、心をニュートラルなゼロ地点へと戻します。
2. 日常実践のヒント2:脚下照顧(きゃっかしょうこ)の「一事三昧(いちじざんまい)」
状況がどうあれ、「脱いだ靴をごまかさず美しく揃える」「目の前の食器を丁寧に洗う」といった、100パーセント自分でコントロールできる足元の微細な行動に没頭します。禅の「脚下照顧」です。外側の環境に自分の感情の主導権を渡さず、今ここの所作に成り切ることで、心の天秤はピタッと水平に定まります。
3. 日常実践のヒント3:まくとぅ(誠)を尽くした「なんくるないさ」
沖縄の「なんくるないさ」の真意は、本来「真(まくとぅ)そーけー、なんくるないさ」。誠実に今できるベスト(真)を尽くしたなら、あとの結果が苦であろうが楽であろうが「天の計らいに任せて笑っている(なんくるないさ)」という強烈な信頼(全受容)です。未来の結果を操作しようとする傲慢さを捨てたとき、あなたはあらゆる状況を歓迎できるようになります。
第四章:【実践編】観音寺流:心の容量を広げる「苦楽全受容の座禅」
当寺の座禅会でお伝えしている、自身の軸を再構築し、あらゆる波を融かすための具体的な座り方です。
ステップ1:垂直の軸を立て、王者として座る(調身)
背骨を真っ直ぐに立て、顎を引きます。自分は大地に根ざしたガジュマルのように安定しているとイメージしてください。正しい「形」を維持し続けること自体が、精神の揺らぎを物理的に抑え込み、外部の雑音や感情の波に揺らされない強固な器(軸)を確立します。
ステップ2:吐く息を「こだわりの放流」として聴く(調息)
鼻から細く長く吐き出します。禅の呼吸は「出し切ること」が先です。頭に溜まった「もっと楽が欲しい」という渇愛、胸に詰まった「この苦しみが嫌だ」という反発を、すべて吐く息と共に沖縄の大地へ還します。吐き切ったあとの「空白(空・くう)」を味わうことで、心は完全にゼロ地点へとリセットされます。
ステップ3:半眼の静観(調心)
目は完全に閉じず、ぼんやりと全体を眺めます(遠山の目)。浮かんでくる「嬉しい」「辛い」という雑念を、ジャッジ(善悪)せずに放置します。追いかけない、留めない。鏡のように、ただ通り過ぎる雲を映しては流す。その静寂の果てに、あなたはどちらの波が来ても溺れない、真実の安心を見つけます。
第五章:道慶の総括:沖縄のガジュマルが語る、不断の再生
ここ沖縄市 観音寺のガジュマルの木を見てください。年中降り注ぐ南国の暖かな陽光という「楽」の日もあれば、すべてを吹き飛ばそうとする猛烈な台風の暴風雨という「苦」の日もあります。しかしガジュマルは、天気を呪ったり、晴天の日だけをえり好みしたりはしません。どちらの天気も、自らをこの大地に存在させる大自然の巡り合わせとして100%受け入れ、深く根を張っています。沖縄の自然は、本当の心の安定とは「不快のない温室に逃げ込むこと」ではなく「苦楽のすべての風を受け止めながら、自らの中心(核)を揺らさないことだ」だと教えてくれます。
苦と楽を受け入れる心を生きるとは、感情のないロボットになることではありません。悲しいときは静かに涙を流し、嬉しいときは素直に喜び、それでも一呼吸置けば、またスッと真っ新な中心(丹田)に還ってくることです。私自身の修行時代、格闘技の敗北も、人生の困難も、この「手放し、中心へ還る」智慧によってすべて再生の血肉としてしてきました。「あなたが『こうでなければ嫌だ』という脳内の檻をひらき、生かされている今を丸ごと受け入れたとき、人生というリングは安らぎの光に満ち溢れる」ということに。
沖縄には葬儀(葬儀 沖縄)や法事(法事 沖縄)を通じて、命の有限性を深く知り、現世の忙しさや執着を掃除して本来の自己へと還る文化が深く根付いています。手を合わせる供養(ウートートゥ)の時間もまた、独りよがりな苦楽のこだわりから離れ、大いなる命の連なりへと立ち還るための大切な座禅と同じ意味を持ちます。独りで悩まず、観音寺のガジュマルのようにどっしりと、しなやかな心で今日を歩んでください。合掌